慈愛に満ちた神
(エペソ2章1〜10節)
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 (エペソ2章4〜7節)
御霊の実の五つめ、慈愛について学びます。慈愛という言葉は親が自分の子どもに注ぐような愛のまなざしを感じさせる言葉です。新改訳や新共同訳聖書のように「親切」と訳すと、具体的な働きを伴うことがよく分かります。
1 キリストにある慈愛
@罪過の中にあって死んでいた私に注がれたもの・・・この慈愛は自分の罪過と罪とによって死んでいた者、悪の霊に従って生きていた者、肉の欲に従って日を過ごしていた者、肉とその思いのままに生きていた者、生まれながらの怒りの子、罪過によって死んでいた私に注がれたのです。
A神の恵み・神の賜物・・・これは神の賜物です。私たちに資格があったからではなく、キリスト・イエスにあって私たちに与えられたのです。
B絶大な富・・・この慈愛は決してちびちびしたもの、ケチケチしたものではありません。それは絶大な富なのです。死んでいた私が生かされ、共に天上で座につかせてくださった。キリストの無尽蔵の富が私たちに与えられるのです。
2 私の内に結ばれる慈愛
神の慈愛によって私たちもそのような慈愛に生きる者へと変えられます。人々を愛し、人々に仕え、人々に親切にする者へと変えられます。神が私たちに対してもそうであったように、決して自分の気に入った、自分と気の合う人にだけ親切にするのではありません。神様からとんでもなく離れている人々にさえも、この慈愛は注がれるのです。
@神の富を示す・・・その慈愛を通して、神が私たちにどんなに大きな恵みを与えてくださったかが明らかになります。神様の慈愛を知っている人はけちくさくないのです。そんなことをしたら得だとか、損だとか言いません。神から本当に豊かな富をいただいているからです。
A良い行いをして日を過ごす・・・慈愛に生きるとは良い行いをして日を過ごすと言うことでもあります。神の作品として神がそうであられるように、私たちも生きていくのです。
(2007.8/19)