わが家は祈りの家
  
      (ルカ 19章 41〜48節)

わが家は祈の家であるべきだ。    (ルカ 19章46節
 イエスさまはついにエルサレムに入って行かれました。そのエルサレムの東側の門からはいると直接、神殿の庭に入ります。イエスさまはこの神殿をどのようにご覧になったでしょうか。そのことをふまえながら、今、主がこの教会をどのようにご覧になるかを考えたいと思うのです。

1 わたしの家
 そこにはパリサイ人たちや律法学者たち、サドカイ人たちや祭司たちが集まっていました。彼らはイエスさまを憎み、殺そうとしていた人たちです。まさに彼らの本拠地と言ってよいでしょう。けれども神さまは、その神殿を「私の家」と呼ばれたのでした。この箇所はイザヤ56:7の引用です。世界中からの人々が集まってきて祈る「私の家」。神はそのようにその場所を特別な思いで見ておられたのです。そこはアブラハムがイサクをささげた山、ダビデが悔い改めてささげ物をささげたアラウナの打ち場でした。神はかれらのことを覚えておられて、特別な場所として見てくださっていたのでしょう。

2 祈りの家
 イエスはその場所で商売をしていた人たちを追い出しました。ここは強盗の巣ではない。もちろん、商売人たちも礼拝者たちの便宜を図っていたのです。でも、いつの間にか実際にお金儲けの方が主になってしまっていた。それだけではありません。便利は便利だったとしても、その場所は「異邦人の庭」と言われて異邦人たちが神を礼拝する場所だったのです。彼らはそれより奥には入れなかった。その世界中から集まった人々が祈る場所が、そんな騒がしい場所になってしまった。祈って、神に近づき、神を礼拝する場所なのに・・・教会は神を礼拝し、祈る場所です。そこから祈りが閉め出されてしまうとしたら、イエスさまはどんなに嘆かれることでしょうか。

3 神のおとずれ
 イエスは嘆き、涙を流されました。この町は神の訪れを知らない。平和をもたらす道を知らない。実際、そこにイエスがおられるのに、そのイエスを迎え入れようとしない。ここに主はおられる。どうかこのお方を受けいれていただきたいのです。
イエスは今、この教会をご覧になってどのようにお感じになるでしょうか。泣かれるでしょうか、それとも喜ばれるでしょうか。私を見て、どのようにお感じになるでしょうか。私たちは祈っているでしょうか、神のおとずれを知っているでしょうか。


(2007.4/15)