主を喜ぶことは
(ネヘミヤ8章9〜12節・ルカ9章18〜24節)
この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。 (ネヘミヤ8章 10節)
いろいろな時に私たちは喜びます。思い通りに願いがかない、私たちの心が溢れ、予期していない思いがけないことで喜び、あるいは自分が認められ、人に役立ち、感謝され喜ばれる時、誰かと楽しみを共有する時に、それは大きな喜びに繋がります。また将来に何か希望があると、その希望は私たちを喜びに満たし、人を変えていきます。
ネヘミアの時代、バビロン捕囚から帰還して神殿を建て城壁を補修した時、神様のために働くことが出来ることは、イスラエルの人々にとってどれ程大きな喜びであり、大きな力だったことでしょうか。主を喜ぶとは、自分の状況を見て悲しむのではなく、神が私をどう見ておられるかを知って喜んで自分の人生を歩んでいくことです。それは私たちの力となります。私たちは自分の願っているように神がして下さることを見て喜ぶことが多いのですが、たとえ苦しいことがあっても神はいつもそれを良きに変えてくださいます。神様は恵みと祝福で溢れさせて下さるお方です。
ヨブの人生にまさにとんでもないことが次々に起こってきました。でもヨブは神様から幸いを受けるのだから災いをも受けるべきと告白しました。私たちの人生にもいろいろなことが起こります。私たちもヨブのように言うことが出来るでしょうか。
ルカ9章で、弟子たちは主を「神のキリスト」と告白しましたが、イエスことが約束された救い主だから自分たちも将来しかるべき地位に付くことをできると希望をもっていました。ですからいつも弟子たちには喧嘩、言い争いがありました。主はこの告白を受けて、「自分の十字架を負って私に従ってきなさい」と言われました。自分の十字架とは、自分の考えていたことが崩れ去り予想がはずれ、期待が裏切られて喜ぶことも出来ない時にも、自分の想定した信仰を捨てて神様を信じ従うことです。他の 人では負うことの出来ない悩み、苦しみ問題、そしてその人しかできない使命を負うことが自分の十字架です。
神が置いて下さったそのところが私たちの生きる場です。神は、私たちにしかできない役割を与え、どのような中にあっても私たちが神の栄光のために生きることを願っておられます。そして神は決して私たちを見捨てることなく、そのお約束を果たして下さるのです。
(2007.2/18 古谷晃師)