尊きに用いられる器
  
      (Uテモテ2章14〜21節)

もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。    (Uテモテ2章21節

私たちは誰もが神に用いて頂きたいとの願いを持っています。そして神もまた私たちを用いたいと願っておられます。家には、いろいろな器がありますが、その尊卑は器の材質によって決まるのではありません(20節)。私たちに当てはめるなら素晴らしい才能、働きがあるから尊い器だと言うわけではないのです。

 21節の原文を直訳すると「これらのものから自分をきよめたら尊い器になり、潔められて役立つものとなり用いられる」となります。まず自分を清める必要があります。言葉の争い(14節)俗悪なむだ話(16節)とは言葉だけで実体の伴わない信仰の生き方で、神聖を汚し、どんどんと繁殖して周りに悪影響を与えます。

 全存在をかけていない信仰生活は楽かもしれませんが、神に献げて生きる生活ではありません(15節)。自分を清めることは、神に自分を献げ、それを妨げるものをもまた献げる生き方をすることです。私たちが実際に神に献げて生きる時、私たちは潔められて神の尊い器としていただくことが出来るのです。

 私たちは、神の御前に生きる中で少しでも神の思いに自分の期待や願いを入れて仕えていく生き方をすることが多いかもしれません。でもそれでは神の願っておられる生き方は出来ませんし、神も私たちをお用いになることが出来ません。そういう生き方をしていると必ずどこかでそれを清算することになります。神は、私たちに、用いられる器として歩んでもらいたい、だから自らを清めてもらいたいと語りかけておられるのです。

 では、どうしたら自分を清めることが出来るのでしょう。19節の引用の背後にはイザヤ書43章があるだろうと思われます。神は、私たちをよく知っていて下さり、私たちのことを「私のものだ」と言っていてくださる。私たちが神のもので、神に愛されている存在だと深く知り、実感する時、私たちは自分の不義に気がついてそれから離れ、自らを献げることが出来るようになります。神よりも自らの体験や経験に頼ったり、こだわりや周りを許さない、といった生き方を献げて生きる中で、神は私たちを用いられ、ホーリネスの恵みの御業をなして下さいます。何も留保せずに、主の御前に出る者でありたいと思います。

(2007.2/11 内藤達郎 師