このイエスによる福音
(使徒行伝 13章 38〜 39節)
すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。・・・信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。 (使徒行伝13章 38〜39節)
1.罪を赦される方(38)
人間は罪の性質を持っていて、神と同じ方向を向こうとは思わず、自分の力で何でもやっていけると思ってます。けれども、やがて私たちの人生にも、神を必要とする時が訪れます。神は確実に私たちと出会ってくださる。これ以上悪い方向に行かないように、ずっと一緒にいてくださり、目を配っていてくださったと言った方が良いのかもしれません。いくら自分で自分の間違い・罪を認めたところで、神の前に自分の力では自分を救うことができない。そんな無力な私たちに与えられた唯一の解決の方法が、イエス・キリストの十字架の贖いだったのです。イエスの犠牲によって私たちの罪が赦されたのです。
2.義を与える方(39)
自分から進んで神から離れて歩みを進め、神の前に全く汚れていた者が、神から聖なる者と言われる。義でなかった者が義と認められる。どのようにしてでしょう。イエスの十字架の血潮によって私たちの罪が赦され、洗いきよめられたのですが、その私たちを今度は正しい者として見て下さる。罪が帳消しにされた時点でマイナスがゼロになったとしますと、今度はゼロをプラスにしてくださると言うわけです。聖書にはこのように書いてあります。『信じる者はもれなく、イエスによって義とされる』と。私たちが何かをしたから義とされるのではなく、『信じる者はもれなく』、私たちの努力ではなく『イエスによって義とされる』のです。
3.このイエスによる福音(38)
パウロはこの説教を、『引きつづき神のめぐみにとどまっているように』と、勧めて閉じました。
『神のめぐみ』、それは神からの一方的な賜物であって、自分たちの力によらないことです。神の御手の中にあって、私たちは自分の能力や努力によらず、神の与えてくださる平安を実感すること。それが『神のめぐみにとどまっている』ということ、『このイエスによる福音』にとどまるということではないでしょうか。
神のめぐみである、このイエスによる福音にとどまり続けられるように、神との豊かな交わりの中に生き続けることができるようにお祈りします。
(2006.10/29)