神を喜ぶ
(イザヤ61章 10節〜62章 5節)
わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。 (イザヤ61章10節)
主は救い主だから
「主が私に救いの衣を着せ、義の上着をまとわせて」・・・それは主が私たちを救ってくださったからです。ただ、ここで救ってくださったというのは、やがてこのイスラエルは国を失い、エルサレムは異邦人の手に渡るけれども、もう一度エルサレムは神の民の手に戻ってくるから、ああ本当に神さまは私たちを救ってくださった・・・確かにそのこともあるのですが、ここで言うのはそれだけではなく、義の上着を着せてくださる。救ってくださるというのはまさにそういうこと。つまり罪を犯し、神に背いて自分勝手な歩みをしていたイスラエルの民が、そこで一生懸命がんばってきよくなるというのではない。神によって義の上着を着せていただいて、きよくない者がきよい者と見ていただける。罪の中に歩んでいた私たちが、罪をゆるされて、イエスの中にある義、きよさを与えられる。私の中にあった罪をキリストが引き受け、代わりにキリストのきよさが与えられる。神の備えてくださった救いはそのようなもの、だから私たちは主を喜ぶのです。
主は私を愛してくださる
なぜそこまで主は恵み深く、私を救ってくださったのだろうか。それは主が私たちを愛してくださったから、花婿と花嫁のように、主は私たちを愛してくださったのです。私たちは、このお方に触れるときに、うれしくなる、喜びがあふれてくる。愛するというのはそれにふさわしいからではない。私たちの愛には条件がいっぱい付きます。でも神さまは私たちのことを無条件で愛し、受け入れてくださる。だから私たちはうれしいのです。
主を喜ぶとはどういうことか
それはうれしいうれしいと踊るだけではないでしょう。主が私たちを喜ばせてくださる。主は私たちに愛を注ぎ、主の前にふさわしい装いを与えてくださるのです。大切なことは主があなたに義を着せようとおっしゃって、私たちに救いの衣を着せてくださるときに、感謝してそれをいただくことです。それが「信仰」ということなのです。
(2006.4/30)