ひたすら主に喜ばれる者でありたい
(Uコリント5:1〜15)
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。(9)
ここでパウロは自分の内にあるとても強い願いを語ります。自分には願いがある。それは「ただ主に喜ばれる者となること」だったのです。なぜ、そのことがパウロの願いだったのでしょうか。
1 私たちのために永遠の家が備えられていることを知っているから
私たちはこの地上を歩んで居る限りは様々な弱さをかかえています。パウロが4章7節以降で、土の器、艱難、途方に暮れること、迫害、絶えず死に渡されている、滅びるべき外なる肉体・・・というのはパウロの置かれた現実を表している言葉でもあったでしょう。けれども、パウロは見えないものに目を注いで生きていました。今の私たちの体は幕屋だ。これは仮住まいであって、いつまでもここに住むわけではない。やがて天から永遠の家をいただくのだ。主がそこに居てくださる。
神は私たちを救って永遠の命を約束してくださいました。そしてその私たちが天の御国に住む保証として御霊をくださったのです。だから、パウロはいうのです。私の願いはただ主に喜ばれる者となることだと。
2 神のさばきの座の前に立つときが来るから
もう天国は約束されているのだから何でもいいのかというとそうではなくて、神は私たちを良きにつけ、悪しきにつけ、自分のおこなった事に応じて裁かれます。神は侮るべきお方ではありません。私たちは主を恐れて主に従うべきです。だからパウロは主に喜ばれる者でありたいと語ったのです。
3 キリストの愛が私に迫っているから
パウロが多くの苦難の中でキリストに従い、キリストの喜ばれることを望んでいるのは、何かの強迫観念にかられてというようなことではありません。キリストの愛が私に迫っている。だから私はどうしても主に喜ばれる歩みがしたい。私を愛して私のために命さえも捨ててくださったお方がおられるのだからとパウロは言うのです。
ただ主に喜ばれることが・・・そんな生き方が自分にはできるだろうか。○○さんも××さんも神様のお気に入り、でも・・・私なんて・・・いいえ、神様はあなたを愛していてくださり、そしてあなたをもその恵みに満たして、神の喜ばせする生涯を送らせてくださるのです。
(9/18)