主にみつめられて
           
(イザヤ43:1〜7)

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。   (イザヤ43章4節)

 私たちは人の目をよく気にします。それが、人と人との間を上手に持って行く生き方のこつであると共に、人の目を気にしながら生きると言うことは時に、私たちにとても窮屈な思いを与えてしまうことがあります。聖書は人の目を気にするかどうかという以上に、神のまなざしを意識しながら生きることの大切さ・幸いを語っています。

1 神の視線

 今日も神のまなざしが私たちに注がれています。何か、またへまをしないか、失敗をやらかさないか。罪を犯さないかと神は私たちを見張っておられるのではなく、私たちに暖かいまなざしを向けていてくださるのです。神は私たちに常に視線を向けておられます。神は私たちに関心があるのです。約束の地に向かって行ったイスラエルの民に対して神さまがおっしゃったのは、あなたがたがこれから行ってとる地は良い地で、年の初めから終わりまで主の目が常にその上にある、ということでした。

 神は私たちが調子のいいとき、私たちに視線を向けておられます。また私たちが調子が悪いとき、私たちを見つめておられます。神はいつも私たちのことをお心にかけていてくださるのです。

2 尊く重んぜられるもの

 私たちはいつもある意味神さまの前に立たされたら、やっぱり薄よごれて汚いに違いありません。イザヤの時代のイスラエルの姿もまさにそのようなものでした。けれどもそんなイスラエルの民を、またそんなあなたをすばらしい、尊い、大事だと見ていてくださるのです。ここまでも学んできましたように、そんな私たちを私が作った、私があがなった、私にとって本当にかけがえのない貴重なものと見てくださるのです。

 私たちは自分の弱さに泣くことがあります。また人から責められることがあるかもしれません。けれども神はその人、その人を全部分かった上で、ありのままを受け入れ、これだけ条件が整ったら尊いと言ってあげようではない、そのままで尊い、高価だと言ってくださるのです。

 暖かい神のまなざしに支えられて歩んでいきたいと思います。

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