贖い主なる神
(イザヤ43:1〜7)
わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。 (イザヤ43:3 )
聖書の中であがないとはどういう意味なのでしょうか。
1 あがなうお方
恐れるな。私はあなたをあがなった。と聖書は語ります。昔、旧約聖書の時代、貧しい人々はやがてその生活を支えるために、自分の畑・土地を売ると言うことになった時には、一番近しい親族が立ち上がって、それを買い戻してあげる、というシステムがありました。そして近しい家族ほどその責任は重かったのです。
1節であがなう方と言われているのはそういうことです。私たちは皆罪を犯して、自分でどうにもならなくなっている破産状態だ。誰かが助けてくれないとどうしようもない。
けれども、そんな時に、「私が」と手を挙げてくださった方がいらっしゃる。神は本来私たちとは全く違う超越しておられる方。でもこの方は私たちの親戚のようになって、私たちをあがなってくださった。私をあがなってくださる方がいらっしゃるというのです。
2 あがないの代価
3節においてはあがないしろと訳されている言葉は身代金のことであり、どちらかというと、あがないのために支払われる代価に重きがおかれた言葉です。
私たちは罪の奴隷だと聖書は言います。罪という主人はなかなか強欲で私たちを自由にしてくれない。手放してくれない。だれかが身代金を払って私を買い戻してくれないだろうか。創造主なる神が私が払うと言ってくださった。けれども何を払ってくださったのだろうか。聖書が言っているのはイスラエルの聖者なる神が、金銀ではない、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い血をもって私たちをあがなってくださったのだ(Tペテロ1:18〜19)。神さまはその一人子の命という大きな犠牲を払って私たちをあがなってくださったのです。
神さまはそのようにして大きな代価を払って私たちを買い取ってくださいました。そしてこの方は、御子のみならず万物をも給わざらんや(ローマ8:32)。あなたが勝利の中を歩んでいくことのためだったら、どんな犠牲をも払ってくださる。私たちはこのお方に信頼して歩んでいくのです。
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