女よ、なぜ泣いているのか
      
(ヨハネ20:1118)

 女よ、なぜ泣いているのか。       (ヨハネ2013


 マグダラのマリヤはイエスの墓の前で泣いていました。けれども、イエスは彼女に近づいて「なぜ泣いているのか」と声をかけられました。

T 私たちの悲しみ

 私たちの歩みの中には多くの悲しみがあります。大切なものを失うときに、私たちは深い悲しみに包まれます。私たちは目に見える様々なものを失い、また目に見えない様々なものを失います。健康、お金、財産、地位、名誉、・・・。けれどもその悲しみの中でも一番深いのは、愛する人を失う悲しみでしょう。とりわけ、愛する人の死は私たちに深い悲しみをもたらします。

 マグダラのマリヤにとって尊敬し、慕っていたイエスを失う、しかも十字架の死というむごたらしい死によって失うことほど悲しいことはなかったに違いありません。イエスはまさに彼女の救い主だったからです。

 けれども、彼女が泣いていたのはそれだけの理由ではありません。その死体さえも無くなってしまったのです。奪われて奪われて奪われて、神さえも見えなくなるという、その喪失感の中でマリヤは一人そこで泣いていました。

U 片えに立たれる主

 けれども、そんな涙にくれているマリヤの片えに主は立っておられました。確かにイエスは私たちの罪を負って十字架の上で死なれましたが、三日目によみがえってそこに立っていてくださったのです。

 私たちの悲しみのただ中に、主は死をも打ち破って立っていてくださるのです。

V なぜ泣いているのか

 マリヤが泣いていたのは当然のことです。けれども、そんなマリヤに復活の主は近づいて、「なぜ泣いているのか」と問いかけられました。主はすでに死を打ち破ってよみがえってくださったからです。

 「マリヤよ」とイエスが彼女に声をかけてくださったとき、彼女にすべてのことがわかりました。主はよみがえられたのです。

 よみがえられた主イエスは今日も私たちの片えに立ち、時に悲しみに閉ざされてしまうような私たちに、「なぜ泣いているのか」と声をかけてくださいます。そして、私たちはマリヤがそうであったように、悲しみの中で立ち上がり、喜びをもって主を見つめるのです。

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