私たちを造られた神
(エペソ2:1〜10)
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 (エペソ2:10 )
私たちは自分が「よい作品、神の完全な作品」であるとはとても思えず、人を妬んだり、失望が生まれたりすることがあります。けれどもそんな時にも、聖書は「あなたは神によって良く造られたものである」と、私たちに呼びかけるのです。誰が何と言おうと、自分でどう考えようと、私たちは「神の良い作品」です。
怒りの子だった私
しかし、3節を見ると、私たちはかつて「肉の欲に従って日を過ごし」勝手に生きてきた。あるいは「生まれながら怒りの子」であったという。私たちが造り主である神を信じるということは、神と人間とはまるっきり違うのだということを、正しく理解するようになることから始まります。そうでなく「神のようになりたい」という欲望、これはまさに「肉欲」です。神なんかなくても生きていかれるという思い上がり、自分にはそういう力があるのだといつのまにか思いはじめ、そういうところに、ここで言う「生まれながら怒りの子」が姿を現してくるのです。しかし、そういう時にも、神はご自分の作品に対して、「こんな者はもう私の作品ではない」とは言われません。自分の作品だからこそ怒り、悲しみ、苦しまれるのです。
ですから、今「私たちは神の作品である」というのも、イエス・キリストにあって新しく造られるとき、私たちも人間本来の良さを回復させられるのです。
恵みによる救いの裏返し
パウロはここで「キリストと共に生かし」と書いた後で、どうしても付け加えたくなったのでしょう。「あなたがたの救われたのは恵みによるのである」と書きました。神に造られたもの、神のすばらしい作品、傑作でありながら、その神の許から迷い出て、勝手な行いをし、神の痛み、神の怒りの許にいた者を、もう一度恵みによって造り直し、新しくし、神の栄光を表すように備えて下さったのです。この神の恵みに驚くことは、自分の存在に神の恵みを見出し驚くことです。自分自身の存在こそ神の奇跡であると、これを喜び、これを受け入れるべきです。私たちはキリストにある時、そのままで実に神の傑作なのです。
(1/23 錦織博義師)