十字架への招き
(ルカ14:25〜35)
十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。(27)
イエスは私たちが彼の弟子として生きていくことを願っておられます。
1 優先順位を決めろ!
イエスは家族を大切にされました。けれどももし家族と神さまを天秤にかけなければならないようなことがあったら、私たちは神を選ぶべきです。命を大切にすることはもちろんのことです。けれどももし、自分の命と神への信仰・服従を天秤にかけなければならないようなことがあったら、神を選ぶべきです。捨てるとは軽んじるとか憎むということではありません。優先順位の問題です。
2 自分の十字架を負え!
イエスの弟子となると言うときに、私たちは神さまが私にゆだねておられる重荷を負って従うのです。多くの場合、「自分の十字架」とは自分の好む重荷ではありません。これだけは負いたくないと思うかもしれない。
それは「キリスト者が主イエスのために忍ばなければならない恥と,へりくだりの象徴」でもあります。イエスの弟子となるとき、イエスが辱められ、馬鹿にされたように、私たちもそんな生き方をしなければならないかもしれません。けれども、それを負っていくのです。ひとりぼっちで重荷をしょっていくのではありません。イエスはついてこいとおっしゃるからです。
3 全部をこれにかけて行け!
イエスはここで二つのたとえを語られます。一つは邸宅を建てる人の話、もう一つは敵との戦いをひかえた王のたとえです。イエスの弟子として生きるときにもある意味で、それが何を意味しているのかきちんと落ち着いて考えることが大切です。イエスの弟子として生きるということはどういうことなのだろうか。イエスはおっしゃいます。あなたは私にあなたのすべてをかける意志があるかどうか・・・目に見える持ち物や財産に縛られないで生きることができるかどうかです。そうでないと、塩のように、この世にインパクトを与える生き方はできないのです。
そんな、それでは大損じゃないですか? いいえ、よく座ってもう一度計算して見てください。たといこの世のすべてを失ったとしてもイエスの弟子として、イエスのもとに止まり、イエスについていけるなら、その価値の方がずっと大きいのです。
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