イエスのあがないによってもたらされる平和
(イザヤ53章)
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 (イザヤ53:5 )
神が信頼する者に与えてくださる、その平安はどのようにして私たちに与えられたのでしょうか。神は私たちが平和を得るために、平和の君を送られました。それではその平和の君はどのようにして私たちに平和を与えられるのでしょうか。
1.見るべき姿のない僕
まずイザヤが見たのは見るべき姿のない僕でした。神からつかわされた僕であるのに、華々しいところは少しもありません。それはいわゆる人の好む、麗しい、人気のある、そのような姿ではありませんでした。かえって顔を背けたくなるような姿がそこにはありました。
2.しもべを見捨てた私たち
多くの人たちが、イザヤは自分自身も含めて、その神のしもべを見捨て、目を背け、首を振るというのです。あーあ、あいつは本当に神に見捨てられているのだと言うのです。私たちは本当にそのような惨めな救い主は嫌いなのです。もっと自分を楽にしてくれる、金持ちにし、身分を与え、望みを何でもかなえてくれるような救い主がほしいのです。私たちはこんな救い主なんていらないと、このお方を見捨てたのです。
3.しもべの苦しみの意味
けれども、イザヤはそのみじめなしもべの姿にもう一つの姿を重ねていました。それは実はその惨めなしもべの姿は僕自身の惨めさではない、それは私自身のものだ。私の身代わりにこのしもべはみじめになって下さって、私たちを救ってくださったのだ。私は目を背け、首を振っていたけれど、実はあの惨めな姿は、私の姿だったのだ。この僕が私の病も、とがも、悲しみも、不義も、罪も負ってくださったのだ。
私たちは神に背を向けて、神の敵として生きてきました。けれども、そんな私たちに平和を与え、平安・シャロームの中に生きることができるように、このしもべは来て下さったのです。神が私たちに平和・平安を与えてくださる。それは決してなまやさしいことではなく、このしもべなるメシヤ、イエス・キリストが十字架で苦しんでくださった、そのあがないによって、私たちは平安をいただくのです。
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