十字架を負って生きる
        
(ルカ14:2532)

自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。         (ルカ14:27


 私は、北海道の山奥で信仰を持ちました。雨の日、吹雪、マイナス二、三十度の時も旭川から村の教会に、牧師先生は来られて、お話しをして下さいました。先生は、よく暖房も使わずに布団をかぶって押入れで、まだ開かれていない中国宣教のためにお祈りされていました。二十数年経って、いろいろの病気を併発されて召されましたが、先生の葬儀の日が、私が初めて中国に行く日になりました。一人ひとりのお祈りは、決して無駄ではありません。

 初めてお会いした中国のクリスチャンたちの方の顔は輝いていて、キリストの香りが放たれていました。神様が今も生きて、戦いの中にある人を励ましておられる事実を見せて頂き、私もこの神様のために生きようと思いました。

中国のクリスチャンは、「大切なことは能力がある、大伝道者であるということではなく、自分の十字架を負ってキリストに従うことです」と、よく言います。ルカ十四章には働き人がまずすべき基本が書かれています。従うことは特別な人たちにだけではなく、神の子とされた私たち一人一人に与えられている使命なのです。

 「天のお父様、私たちはこの身を負うことはできません。どうか助けて下さい。私にできることはあなたにお任せすることです。あなたがしたいと思われることを私にさせて下さい」と祈りましょう。主のために損する、誤解をされる、いやな思いをすることはできます。キリストのために生きる、御言を知ることはできます。私たちもこのような十字架を託されているのではないでしょうか。大切なことは、御言によって養われること、もっと大事なことは御言を生きることです。

 御言には、人生を変える力があります。献げることは、なにか働きをするのではありません。神ご自身に働いて頂くことです。主のために受ける多くの苦しみを通して教えられることは、私たちの生涯には主の目的があることです。私たちは神様に似たものとされる作業を、今も受けているのです。

 御言がなくては神様の御心を知ることはできません。福音を届け続けられるようにお祈り下さい。

(11/7  守部 栄子姉