規則とあわれみ
(ルカ14:1〜6)
あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか (ルカ14:5 )
イエスは本当に憐れみ深いお方です。
1.パリサイ派のかしらをあわれまれたイエス
イエスはあるパリサイ派のかしらの家に入って食事をなさいました。イエスにとっては取税人もパリサイ人も同じように神に愛されている、しかし神から遠く離れてしまっている罪人であり、救いを必要としている人々だったからです。
2.水腫の男をあわれまれたイエス
そこに水腫を患っている人がいました。この日は安息日でした。そして、この水腫の男はこのパリサイ人たちにとってはイエスを非難するための道具に過ぎませんでした。
イエスは彼らに、「安息日に人をいやすのは、正しいことか」と問われました。彼らは結論をもっていました。律法によれば安息日に仕事をすることは禁じられている。けれどもイエスは黙って、その人に手を置き、水腫を癒してくださいました。
イエスはそこで話をされます。自分の息子が井戸に落ち込んだら安息日だからと言って見捨てるだろうか。それが律法を破ることになったとしても、どんなにそれが後で人々の非難を浴びたとしてもきっと助けるに違いない。きまりがどうでもいいというわけではない。けれどもきまりがあわれみや愛を閉め出すようなものになってしまったら何にもならないのです。それは律法の土台であり、律法の指し示しているのは神のあわれみに他ならないからです。
3.私たちをあわれまれた主
そして神はとんでもないことをしてくださいました。律法学者・パリサイ人たちがそのことを知ったら「規則違反だ!」と叫んだかも知れません。神が人となり、人と共に住み、十字架にかけられてあざけられ、死んでくださった、そして罪人で呪われ、滅ぶべき私が罪赦され、救われるべき道を開いてくださった。とんでもない。そんなことをしてはいけない。罪を犯した者は死ぬべきなのだ。もっと厳格にやれ!と私たちは叫ぶかも知れません。けれどもイエスは私たちをあわれんでくださった。ご自身の大切なものだと見てくださった。だからこそ、そのあわれみがあるからこそ、私たちはこうして今日も主の前に近づくことができるのです
(10/24)