キリストの死はむだであったか
(カラテヤ2:15〜21)
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。・・・わたしは、神の恵みを無にはしない。(ガラテヤ2:19〜21)
パウロはキリストの死が無駄にされてしまう・・・という危機感を当時の教会の中の切実な問題として持っていました。
1.信じないとしたら
イエスは私たちの罪を負って死んでくださいました。もうすでに救いは成就したのです。けれども、私がその救いを自分のものとするために必要なことがあるのです。もしそれがなかったら、せっかく神がわたしたちに手渡そうとしている救いを自分のものとできなくなってしまう。無駄になってしまう。それは自分の罪を認め、自分も救われるべきものなのだということを認めて、救いを備えてくださったお方の所に行き、その救いを私にもくださいと求めることなのです。
2.律法による義によって救われるとしたら
自分の努力や精進によって救いを、自分の義に対する当然の報酬としていただこうと考えるとしたら・・・キリストの十字架は無駄になってしまいます。努力によって、真面目さによっては救われない。信ずるものに神が与えてくださる神の賜物なのです。
そして単にイエスを信じて、あそこで救われたと言うだけではない、私を愛し、わたしのためにご自身をささげてくださったお方を信じて歩み続けるのです。
3.キリストと共に死なないなら
私たちは罪をおわびして信仰のスタートをするわけですが、クリスチャンとしてあゆんでいくと、神の望まれることがだんだん分かってきます。ところが、それではそのように生きられるかというと、そうではなく、かえって神の御旨を知れば知るほど、神の御旨に従い得ない自らの姿を知るのです。それではその神の御旨に従わない自分はどうするか。死ぬしかない。でも私たちは死ねない。ただ私たちがわたしはキリストと共に十字架につけられたということを受け止めるしかないのです。
キリストの十字架を無駄にしないで下さい。十字架は神の愛とゆるしのしるしなのですから。
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