裁きの座の前に立つ
(マタイ25章31〜46節)
わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 (マタイ25:34)
イエスは最初に来られたときには十字架に死んで、私たちの救いの道を全うするために来られましたが、二度目に来られるときには、王の王として、生きた者と死んだ者とを裁くお方として来られます。その時に生きている者は主の前に立ち、またその時に死んでいた者もよみがえって共に主の前に立つのです。
1、裁きの内容
この地上を歩んでいたときにはなかなか見分けがつかないこともあっても主の前に立つときには二者がはっきりと分けられます。そしてその判決は永遠の刑罰か永遠の生命です。もちろん、聖書は私たちを脅そうとしてこのようなことを言っている訳ではありません。私たちが皆、イエス様のおいでの時を救いと祝福の日として喜んで待ち望むことを主は願っておられるのです。
2、裁きの基準
それでは何がその裁きの基準なのでしょうか。
@信仰・・・羊は羊飼いに依存しないと生きていけません。ですから、羊飼次第でその羊の生涯は決まってきます。それに対して山羊はずっとたくましくて、一匹でも生きていける。生きていこうとする。信仰とは神の御前に従順に、そして神にすがって生きていくと言うことです。そして永遠の命に至るのは羊の方です。ここで大切なことは神の御前に、神なしに生きてはいけない者であることを認めて、このお方にすがって生きることなのです。
A神を愛し、人に仕える生き方・・・それは決して大きな奇跡を行ったとか、大きな業を行ったとかいうようなことではありません。主は私たちが覚えてもいないような小さな業を、私にしてくれたこととして覚えていてくださるのです。小さい一人の人に注いだ愛の業が、実は神に覚えられ、神をお喜ばせするのです。逆にまたそこでは、あなたはこんな悪業をしたというだけではなく、私たちが本当だったらなすべきだった何かをしなかったということが問われてくるのです。
主が再び来られて、生ける者と死にたる者とをさばかれる、それは罪を悔いて主の憐れみにすがる者には大きな慰めと救いのメッセージです。すでに主にすがり、主を信じて歩んでおられる皆さんはさらに主への愛をこの一週間の具体的な歩みの中で形にしていただきたいと思います。