ありがとうの心
(Tテサロニケ5:16〜18)
いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。 (Tテサロニケ5:16〜18)
私たちのまわりにはどんなことでも感謝に変えてしまう人たちがいます。また、どんなことでも不平に変えてしまう人もいます。パウロはテサロニケの教会の人々に、「すべてのことについて感謝しなさい」と勧めました。けれども「すべてのことについて」と言われてしまうと、私たちは心の中に大きな戦いを覚えます。何もないとき、大方のことが自分の思い通りに行っているときには良いのですが、試練や患難の中を通るときには感謝どころかつぶやきや不信感が私たちの心を覆ってしまいそうになるのです。
イエスはどうだったでしょうか。イエスは感謝の達人でした。枕するところもないというような生涯を送り、人々に冷たい仕打ちをされることがあっても、決して不平を言わず、かえって感謝されました。
イエスが寂しいところに行って休もうとされたとき、そこにはすでに先回りした大勢の人たちが集まっていました。けれどもイエスは彼らを憐れんで、彼らに神の国のことを教え、また彼らの体のことも心配されました。5つのパンと二匹の魚しかありませんという弟子たちを黙らせて、イエスはそのパンと魚を手に取り、神に感謝されたのでした(ヨハネ六11)。七つのパンで四千人の人を養われたときにも、やはりイエスはまず感謝をささげました。ラザロが死んで四日たち、すでに死臭の漂う中、イエスは神に祈って開口一番おっしゃったことは「あなたに感謝します」という祈りでした。
条件が整い、揃っていたから感謝したわけではありません。かえって普通だったらと戸惑いと不平しか出てこないようなそんな中でもイエスは感謝されたのです。そしてイエスの感謝は状況を逆転させました。
でもなお、私たちは感謝出来ない自分を見出します。ここでパウロは、「駄目だ駄目だ、もっとしっかり感謝しろ」と言っているのではありません。神は感謝することを「キリスト・イエスにあって」求めておられるのだと言うのです。神は不平がすぐ出てしまう私たちのこともよくご存じです。けれども神はそんな私たちを救い、きよめて、感謝のできる者にして下さるのです。私たちもまた主の恵みによって感謝の達人にしていただきたいと思います。まず、神に、そして私たちの周りにいる多くの人々に心からの感謝をいつも抱き、表すことのできる者でありたいと思います。