2003年9月28日


御言に聴く
         Tサムエル3章1〜21節

しもべは聞きます。主よ、お話しください。    (Tサムエル3章9節)

 キリスト教の中心は十字架のキリストです。なぜ神の子は私たちをあがなうために、私たちに救いの道を開くために、「十字架で」死ななければならなかったのでしょうか。

1.十字架は呪い
 十字架はローマによって考案された最も残酷な死刑だと言われます。けれども、ローマ人たちが十字架刑を考案する前にも死刑の一般的な方法として木にかけるという方法はよく各地でとられていたようです。それは大きなはずかしめであると共に、聖書によれば、木にかけられるというのは「のろい」を意味するというのです(申命記21:23)。
 つまり、イエス・キリストは十字架につけられ、単に肉体的・精神的に人間が考え得る最も過酷な苦しみを経験されただけではない、神に呪われる存在となってくださったというのです。罪のない神の子が呪われるべき存在になってくださった。「キリストは、私たちのためにのろいとなってくださった」(ガラテヤ3:13)。神に捨てられ、裁かれるだけではない、神に呪われてくださった。え、なぜ? 実は私が、わたしこそが呪われるべき存在だったのです。罪を犯し、神に背を向け、神を知らず、神を拒んで生きてきた私たちは、神に呪われるべき存在だったのだ。私たちはキリストの十字架を見つめる時に、はじめて自分の罪深さが見えてくる。罪の大きさ・怖さが見えてくるのです。

2.十字架は神の愛が極限においてあらわされた場
 神は呪われるべき私たちが救われるために、私たちのために御子イエスを送り、きよい御子イエスに私たちの罪と罪の呪いを負わせて十字架につけてくださいました。そのイエスのあがないによって私たちの救いの道が開かれたのです。十字架を見ていると、神様がどんなに私たちを愛していて下さるかが見えてくるのです。
 十字架を見つめて下さい。私たちの罪がどんなに大きなものであったかが分かってきます。十字架を見つめて下さい。神様の愛がどんなに大きなものであるかが分かってくるのです。

 

(9/28 高橋政雄師 礼拝説教より)