2003年9月14日


よみがえられた主を信じる
         Tコリント15章1〜11節

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。    (Tコリント15章20節)

 パウロが「福音」と言っていたのはイエスのあがないの死と復活でした。このイエスの十字架の死と復活こそが私たちの福音の中心、使徒信条の中心とも言うことができるのです。
この復活は・・・

@私たちの救いを確証する
 もし復活がなかったら、確かにイエスは十字架で私たちの罪を負って死なれたのだと言うことが言えなくなってしまいます。私たちの信仰は単なる思いこみと言うことになるかも知れません。主イエスのよみがえり、それは私たちの罪のあがないが確かに神によって受け入れられ、その救いのために必要なことがすべて完了したことのしるしでした。

A私たちにきよく生きる力を与える
 復活がなくて死で私たちの生涯が終わりだったら、私たちはただただ遊んで好きなことをして生きていけばいいということになってしまうでしょう。一生けんめい生きても無駄と言うことになってしまう。けれどもイエスの復活を信じ、私たちの生涯が死で終わらず、私たちもまたよみがえるという希望をイエスにあって抱いている者はこの地上に生きるうちからよみがえった後のことを考えながら生きるようになる。私たちがこの地上で努力し、神のために励んだ歩みは無駄にならないのです。

B私たちに栄化と復活の希望を与える
 もしイエスがよみがえられなかったら私たちも復活を期待することはできなくなってしまいます。死んだら終わりと考えなければならなくなり、私たちは希望を持たないものとなってしまうでしょう。けれどもイエスは私たちの初穂としてよみがえってくださいました。イエスのよみがえりを見て、私たちは自分たちもやがてこの地上の生涯が終わってもよみがえる日が来ることを知るのです。

 このイエスの復活はここまでのイエスの生涯に関する告白と同じように、真実であり、事実です。けれども同時に歴史に起こった事実というのは、科学的に証明するというよりも、その歴史の中に残された資料などから類推し、そしてそれは事実と信じ、認めるか、嘘だと信じるかどちらかしかない。神様は私たちに信じなさいと今日も勧めておられます。イエスはよみがえってくださいました。私たちの信仰も希望も聖い生涯もすべてこのキリストの復活にかかっているのです。

 

(9/14 礼拝説教より)