わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。 わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。 (詩篇139篇8節)
ユダヤ人たちは、死者たちはみな死者の国・陰府に行き、そこで神の裁きの時を待つと考えました。聖書で陰府というときにはそこは確かに分からないゆえの不気味さはあったとしても、おどろおどろしい場所と言うよりも死者が休む場所と言った方がいいでしょう。
神のひとり子として神とともにおられ、神であられるイエス・キリストは単に地に下ってくださっただけではなく、貧しい者たちとともに歩み、捨てられ、邪険にされ、十字架につけられ、死んで、葬られ、そして死者の世界にまでも下ってくださった。文字通り、主はそこにも共に行ってくださったのです。どこに行っても神様を離れることはできない。そのところでも私を導き、私を照らしてくださる。聖書は基本的に、まず私たちがこの地上に生を与えられている間、主の前に真実に歩み続けることを勧めます。しかし、主に頼って歩む私たちにとって、この地上の歩みを終えて陰府に移されても、そこは決して暗くはない。やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。「あなたはそこにおられる」。何と感謝なことでしょうか。
Tペテロ3章18-20によれば、イエスは死んで陰府に下り、まだ福音を聞くことのなかった人たちの所に行って宣教されたというのです。この地上の生涯を終えた人たちに対して死後の世界で悔い改めのチャンスがあるかということについては聖書はほとんど語っていません。かえってこの地上を歩む間に信仰を持つことを熱心に勧めています。聖書がほとんど語っていないことについて、聖書全体のメッセージを無視して、一つの言葉を全体の文脈から抜き出して解釈し、結論を出すことは控えなければならないでしょう。私たちはこの地上において主を知ることのできた幸いを心から感謝したいと思います。
けれども同時にこの地上で全く福音を聞くチャンスのなかった方々に神様が何らかの機会を備えてくださるであろうことも受け止めたいと思います。死んで陰府に下られたということにはこのような大きな恵みがあるのです。