2003年8月17日


苦しみを受けられたイエスを信じる
         Tペテロ2章18〜25節

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。    (Tペテロ2章21節)

1.イエスを苦しみに追いやったピラト
 ピラトはローマに任命されたユダヤの総督でした。本当はピラト自身、イエスに罪のないことを知っていました。彼はイエスを釈放すべきでした。彼はキリストを十字架につけたローマの総督として歴史に名前を残すことになります。
 けれどもこれは単にピラトの罪だけではありません。「ポンテオ・ピラトの下に」と告白するたびに、ああ、私もまたイエスを苦しみに追いやった一人なのだと言うことを私たちは認めざるを得ないのです。神の前でさえも、神様あなたを生かすも殺すも私の思い一つですよと言いかねない。そんな私たちの罪深さがイエスを十字架につけてしまったのです。

2.苦しみを共に負う神
 主はつねれば痛い肉体をもってこの世に生まれ、私たちの苦しみを理解してくださった。体の限界や弱さから来る苦しみ、精神的な苦しみ、人に理解されない苦しみ、愛する人に裏切られ、見捨てられる苦しみ、そして極限の痛み・・・主イエスは負ってくださったのです。

3.苦しみを一人担う神
 けれどもイエスの苦しみの意味とは単に私たちの苦しみを理解するためのものではありませんでした。キリストはまことに私たちのために苦しみを負ってくださったのです。そして尊い、傷のない、罪なく、また苦しむ必要のないお方が私たちの罪を負って、私たちの身代わりに苦しむことによって、私たちを救ってくださったのです。

4.模範としての苦しみ
 イエスの苦しみは「模範」であったと言われています。ポンテオ・ピラトの下に苦しんでくださったお方を信じる人は、同じような生き方の中に招かれています。「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(Tペテロ3:9)のような生涯に私たちは招かれているのです。

私たちにそのような生き方ができるでしょうか。イエス・キリストが模範だと言う時に単にイエス・キリストのまねしなさいと言うのではなく、そのような生き方をなさった主が私たちの内に生きてくださるのです。

 

(8/17 礼拝説教より)