わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、 わきあがるであろう。 (ヨハネ4章14節)
フランクリン・コビーというコンサルタントはこう言いました。「世の中には二種類の物の考え方をする人がいる。一つは、周りの状況によって自分の生き方が決まってしまうと考える人々、もう一つは自身の内側にある喜びや幸せによって周りの状況を変えていく人々である」。このサマリヤの女はまさに前者の典型のような生き方をしていました。この結婚で私は幸せになるのではと5回の結婚をし、今また6人目の男と交際をしていました。けれどこの女性の心は飢え乾いていたのです。そんな女性にイエスはわたしが与える水を飲む者はいつまでも乾くことがないとお声をかけて下さいました。神は私たちに命の水を与えようとしておられます。私たちはどのようにその水を得ることができるのでしょうか。
1.命の水を与えて下さる神に求める
最初はイエスを見下すように応対していた女でした。しかし、イエスからいつまでも乾くことがないという命の水のことを聞き、この女はとにもかくにも「その水を下さい」と求めました。私たちも御言葉の前に、神の前にへりくだり、求めることから始まるのです。
2.私たちの一番の問題を神の前に持ち出す
「水を下さい」と求めた女に、イエスは夫を連れて来るようにとおっしゃいました。イエスはあえて、女の一番触れられたくない問題に踏み込まれたのです。私たちにも神にも触れられたくない問題がないでしょうか。そのような問題を抱えたままでいるならば、魂は飢え乾きます。罪は命の水が私たちに流れて来るのを妨げます。私たちは自分の罪もありのままに主の前に持ち出して、取り扱っていただくことができるのです。
3.神と共に歩む中で、礼拝の中で与えられる
霊とまこととによって礼拝するとはキリストの十字架によって、礼拝すると言うことです。私たちは十字架によって命を与えられ、生かされています。またそれは御言葉によって生かされることです。自分の信仰の歩みもコリント12:9〜10によって支えられてきました。そして御言葉は神の約束であり、それは単なる慰めや励ましではなく、事実なのです。
神は私たちに命の水を与え、乾くことがなく、あふれ出てすべての人をうるおしていくことをして下さるのです。