2003年4月27日


イエスはよみがえられた
         ルカ24章1〜11節

あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。    (ルカ24章5節)

 金曜日の夕刻、イエスが新しい墓におさめられ、大きな石がその入り口に置かれ、封印が押されるのを見届けた女たちは、土曜日、日が沈んで安息日が終わるとすぐにイエスの遺体に塗る香料を買い、次の日の早朝にイエスの墓に行こうと申し合わせました。そして日曜日の朝、まだ夜が明ける前に、女たちは前日に準備した香料をかかえ、墓に急ぎました。

ころがされた大石
 彼らの心配はどのようにして墓の前に置かれた大きな石をどかそうかと言うことでした。自分たちの力ではとても動かせない大岩でした。けれども、女たちが石を動かす必要はありませんでした。もうすでに石はころがされていました。どんな大きな石もイエスの復活を止めることはできなかったのです。
 私たちの歩みの中にもまるで大きな石のような困難や闘いが私たちを閉じこめ、またまるで神をも封じ込めてしまっているかのように思えてくる時があるかもしれません。しかし、神は私たちの最後の敵である死をも打ち破ってよみがえってくださいました。このよみがえられた主の前に動かない大岩はないのです。

私たちの仕えるお方は生きたお方か、それとも死んだお方か
 女たちはイエスに何かを、自分にできる精一杯のことをしたいと思っていました。彼らはイエスを愛していたからです。だからお金を出して香料を買い、朝早く起きて、イエスの仲間と見られることも、ローマの番兵と交渉をすることも恐れないで、墓に向かったのです。彼らのしたことはイエスの十二弟子もしなかったようなことでした。けれども彼らの頭にあったのは十字架に死に、無惨な姿で横たわっているイエスのなきがらでした。
 私たちも神のために自分のできる限りのことをしたいと願っています。けれども私たちは自分の思い通りになる神、まるで横たわった死体のようなお方に対して、あなたは私たちのために大きなことをして下さったからと、自分のやり方で仕えようとしてはいないでしょうか。女たちの買った香料は無駄になってしまいました。イエスはよみがえられたからです。イエスはよみがえって生きておられます。この生きておられる方を私たちは礼拝し、このお方に仕えるのです。

 

(4/27 礼拝説教より)