2003年3月23日


イエスのとりなしによって
         ルカ13章1〜9

そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。    (ヘブル7章15節)

1.滅びるべき私
 私たちはよく、何か自分に悪いことが起こる時に、ばちが当たったといい、神様が何か悪いことをしていた私を裁かれたのだと考えます。
 イエス様の時代にもローマ総督ピラトによってガリラヤ人たちが殺されたり、またシロアムの塔の崩壊によって18人の人がなくなるということがありました。こうした災難に巻き込まれた人たちについてとやかくいわれることがあったのでしょう。けれども、イエスはくり返してこうおっしゃいました。「あなたがたも悔い改めなければ滅びる」。
 悔い改めるとは
@自分の過ちを認めることです・・・神様が私の心に「これはちがう」と語られる時には素直にその自分の過ちを認めることのできる心の柔らかさをいつも持っていたいと思います。
A方向転換をすることです・・・自分の過ちを認めるところでとどまってはいけません。神に背を向けていた生き方から、神に向かって生きる生き方へと生き方を変えることです。

2.とりなされる主
 どうして私は今日、滅んでいないのでしょうか。
@それは主のご期待のゆえです。
神さまは私たちが豊かに実を結ぶことを期待しておられます。イスラエルの民は神から使命を与えられて歩んでいましたが、神のご期待にそうことができませんでした。実のないいちじくとはそういうことです。けれども、何年実を結んでいなかったとしても、神は私たちが豊かに実を結ぶそのことを思い描いていてくださるのです。
Aそれは主のとりなしのゆえです。
私たちは、いつ滅ぼされても文句の言えない者かもしれません。けれども主は私のためにとりなしていてくださる。今年もそのままにしてやってください。まるで、自分の責任ですとでも言うかのように、「もう一度肥料をやって手入れをしてみます」と立ち上がってくださったのです。
 このお方のとりなしのゆえにこそ、私たちはゆるされ、今も生かされています。主は私たちから多くの実を期待しておられます。主に全部をゆだねて、実を結ぶ者としていただこうではありませんか。

 

(3/23 礼拝説教より)