2002年12月15日


思い返される神
        ヨナ3章

   あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、 いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。   (ヨエル2章13節)

1.主の言葉を聞いたヨナ
 魚からはき出されたヨナに神は語りかけられます。本当だったら神様に口きいていただく資格なんてない。けれども神はヨナに語られる。何と幸いなことでしょうか。けれども、主の言葉がヨナに臨んで、彼が神の言葉を聞いたと言うことは単に神様の声が聞こえたということではなく、神の言葉を聞いて従うということなのです。一度目は神に逆らったヨナでしたが、今度は神に従います。
 従うというのはがんばって負っていくということではありません。ちょうどマリヤがイエスを身籠もる時に天使に対してこたえたように、神様の言葉が自由に私の人生に実現していくように、神様の言葉に自分をゆだねていくことなのです。

2.悔い改めたニネベ
 ヨナの宣教は決して脅しではありません。罪を犯していたら本当に滅びるのです。ヨナがどれだけのことをニネベの人たちに期待していたかは分かりません。けれどもニネベの人々は大きい者から小さい者まで神を信じ、神の前に悔い改めます。彼らは@神の前に自分が罪人であることを認め、A神の前に自らへりくだり、B悪い道を離れ、Cひたすら神に求めたのでした。真剣な悔い改めがそこに起こったのです。

3.思い返された神
 神はニネベを滅ぼすとおっしゃっていたのでしょう。そういうはずです。けれども神はニネベを滅ぼすことをおやめになりました。こと救いと言うことに関して、人の滅びか救いかと言うことになった時には神は「思い返す神」です。神はだれも滅びることを願っておられるのではない。救われることを願っておられる。本当は私たちも滅びるべき者でした。けれども神は思い返してくださって、私たちを救ってくださいました。そんな滅びる者をゆるしていいのか。神の正義が全うされるためには滅びるべき者は滅びるべきではないか。けれども神は滅びるべき私たちが救われるということの為だったら御子イエスさえも犠牲にされて、そこまでして神は「思い返したい」神なのです。「思い返したい」と私たちが悔い改めるのを待っておられる神の前に私たちはどのように出たらよいのでしょうか。

 

(12/15 礼拝説教より)