それだけではなく、患難をも喜んでいる。 なぜなら患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 (ローマ5章3,4節)
ローマ書には、聖書の真理、信仰が論理的な方法で書かれています。
最初の3章では、どうしたら人間が神の前に立つことができるか、という大事な問題を扱っています。
私たちは罪人で、到底天国に行けず神の栄光に達しないものですが、イエス・キリストの贖いにより天国に届く者とされるというのです。
「義とされる」とは法廷用語で、裁判官に被告が無罪と宣告されるということです。
神はイエスに罪を全部かぶせて、キリストが有罪判決を受けて下さいました。
そのあがないのゆえに、私たちはキリストを信じることによって無罪の宣告を受けることができるのです。
これが福音です。
5章には結論として「神に対して平和を得ている」と記されています。
宗教改革をしたルターは、野原で落雷に会い、神の怒りを感じました。
天国に行きたいと願い、修行しても平安がない。
彼はキリストは復讐者で自分を地獄に追いやられるのだと思っていたのです。
修行するほど苦しみました。
けれども、詩篇22篇を教えている時、彼は天地がひっくり返るのです。
私たちもキリストを信じて義とされ、平和を与えられました。
2節には信仰のゴールである栄光にあずかる希望が記されています。
主の十字架・復活によって命の道ができています。
死んでも命がある。
希望を与えて下さる。
現実の人生には、患難・苦労があります。
忍耐(下に留まる)や錬達(不純なものが取り除かれる)によって、ふさわしい人格を形造って下さる。
私たちは患難の中にあっても希望を見出し、失望に終わりません。
人格が形成され、錬られた品性が造られるのです。
バンヤンの天路歴程には悪魔は火を消そうとするが、キリストが恵みの油を注いで下さり、ますます燃え上がる、と解説されています。
信仰の出発点からゴールへの旅にはさまざまな患難があり、「何故?」と分からなくなることがあるかもしれません。
しかし、神の愛が豊かに注がれています。
神は愛です。