2002年11月3日


なぜ生きるのか
          ヨハネ14章1〜6節

わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないで父のみもとに行くことはできない。   (ヨハネ14章6節)

私は小学5年生の時、終戦を迎え、教育はスパルタから民主主義になり、価値観が変わりました。 「何のために生きるのか」と、疑問を持ち、本を読みました。 野球・水泳・卓球・テニスの選手をし、勉強しながら「これらを何故やっているのか、広大な宇宙、人生、世界とは何だろう」と疑問を持ちました。 6年生の時、よく手をあげて先生に「どうして勉強をするのか」と質問しましたが、先生は「分からない」と答えました。
中学生になってもこれらの疑問は深くなるばかりでした。 高校の時、手術を受けることになり、野球を断念しました。 これからは好きな英語をやろうと一生懸命勉強しました。
宣教師との出会いが、キリスト教との関わりの初めでした。 18から20歳の時、あらゆる集会に出席して、何とか英語を読み・書き・聞くことができるようになりました。 でも肝心のキリスト・十字架・復活のことが分かりませんでした。 聞けば聞くほど分かりません。神であり人である、人であり神であるお方が十字架で死んで下さった。 主の復活、信じれば神の子とされる、このことは近代的・合理的・科学的に理解できませんでした。
英語を活かし、外交官になろうと、教会を去ろうとしました。 そんな時家族が、次々と倒れました。上の兄が、盲腸で、妹、長兄が肺結核、父が脳溢血です。 私は、教会に助けを求めましたが、心に響かず、分かりません。 抱えている人生の意味、目的がなく、耐え抜き、克服する精神がない、と眠れず考えていました。
そんな時、何度も読んでいたヨハネ14章の御言が突然響いてきて、最も必要な言葉、求めていたのは、これだ、道・真理・命だと思いました。私は、信じました。その時、死から命へ移されました。就職が決まっていましたが、宣教師の通訳の話があり、祈っていますと、ルカ9:23の御言葉「われに従え」が迫ってきました。何故主が十字架に、私のためだとわかりました。宣教師の犠牲・執成し、献身と祈りと重なって泣きました。生涯恵みを全うして、主に従いたいと願い、今日に至っています。

 

(11/3 齋藤孝志師 礼拝説教より)