「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
「その人に慈悲深い行いをした人です」。
「あなたも行って同じようにしなさい」。 (ルカ10章36,37節)
イエスは一つのたとえ話をなさいました。ある人がエルサレムからエリコへの旅の途中で強盗に襲われ、半殺しの状態で横たわりました。
1.通り過ぎた人々
そこに祭司が訪れ、レビ人が訪れるが、この宗教家たちは傷ついた旅人の反対側を通り、見ない振りをして行ってしまったのです。
私たちも何としばしば見ない振りをすることでしょうか。いろいろないいわけがあったでしょう。この旅人を助けていたら仕事に遅れてしまう。自分は疲れている。自分もやられてしまうかもしれない。忙しい。自分には力がない。また次の人が通るに違いない・・・。少なくともこの人々は傷つき倒れているこの人を隣り人とは思わなかったのです。
2.隣り人として生きた人
ところがそこにサマリヤ人がやってきます。ユダヤ人とサマリヤ人は反目しあっていました。けれどもそのサマリヤ人はこの旅人をかわいそうに思って近寄り、傷の手当てをし、宿屋に連れて行き、次の日、お金を置いて出ていったのでした。
イエスは最後におっしゃいます。だれがあの傷ついた旅人の隣り人になったか。ここで問われているのは誰が私の隣り人かではありません。あなたが隣り人として生きよと言う非常に積極的なすすめです。隣り人はどこにでもいるのです。私がその人の隣り人として生きるかどうかが問われています。待っているのではなく、あなたも行って・・・あなたの方が探してでも隣り人の所に行きなさい。あなたが愛すべき人はあなたのまわりにいる。あなたが愛すべき隣り人を探すべきです。
3.わたしの隣り人になってくださったイエス
実はこのサマリヤ人の話を地でいった人がいます。それがイエス・キリストです。あの旅人が傷ついて倒れていたように私たちも罪に倒れて死ぬのを待っています。そしてだれも私たちを助けてはくれません。ところがそこにイエスが近づいてくださり、大きな犠牲を払って私たちを救ってくださったのです。
だから今度はあなたが隣り人として生きるのだと聖書は語るのです。