2002年9月22日


老後を輝くために
          ヨハネ8章1〜12節

わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。   (ヨハネ8章12節)

この夏に、以前宣教師としてご奉仕させていただいていた台湾の教会を訪ねるチャンスがありました。 自分が奉仕していたのは台湾東部の高砂族の教会です。 ここの人々は戦争中は「日本人」として扱われ、戦後は中国本土から逃げてきた人たちが中心となった中華民国の中で暮らしています。 どうか高砂族の教会のためにも続けてお祈りください。 また台湾で加藤望先生のためのお金を預かってきました。 台湾の教会全体が、交流を求めています。是非関心を持って祈って頂きたいのです。
私の台湾でのご奉仕は今の私の生き方につながっています。 それは言葉を持って語る以上に、遣わされたところで信仰者として生きるということです。 まず生きて、信仰を見せることです。
高齢者として生きると言うことは決して楽しいばかりのことではないと感じています。 けれども「主にあって」なら希望があります。
与えられた聖書箇所の9節、「これを聞くと年寄りから始めて出でいき…」に注目させられています。 高齢者から立ち去った事実です。 高齢者というと、分別があり、人生経験も長く、多くの失敗を繰り返し、同じような罪を持っていた人もいたかもしれません。 この女性は主をワナにかけるためにつれてこられました。 けれどもイエスは「あなた方の中で罪のない者が最初に石を投げなさい」とおっしゃいました。 みんなが自分の人生を振り返り、心の中の醜さを探られたのかもしれません。 彼らは去っていきます。けれども本当は去ってはいけなかったのです。 彼らは自分の人生の失敗を解決しないで去って行った。
この罪の女には行き場がありませんでした。 けれどもとどまり続けた彼女に主はゆるしを与えられたのです。 主は十字架にかかって彼女の罪も負ってくださったのです。
輝く老後・・・それは自分の醜さを知っても、十字架の元に留まり続けるというそこから来ます。
老後、一人で教会に行けなくなることもあるかもしれません。 それでも自分の身を十字架の下に置き続けることです。 ありのままをそのままさらけ出して、主イエス・キリストに留まりつづけることです。 主はあなたを輝く者とし続けてくださるのです。

 

(9/22 平田金次郎師 礼拝説教より)