2002年9月8日


イエスとは誰か?
          ルカ9章18〜27節

「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、 「神のキリストです」。   (ルカ9章20節)

 「あなたがたはわたしをだれと言うか」。 イエスさまから私たちすべてに投げかけられている問いです。 イエスをどのようなお方として認識するかということが私たちのイエスとの関係を決めていきます。
ペテロが弟子たちを代表して答えます。 「神のキリストです」。 キリストとはヘブル語ではメシヤと言って油注がれた方、神の遣わされる救い主を指す言葉でした。 あなたこそが旧約聖書に約束されたメシヤ・救い主ですとペテロは答えたのです。
 イエスは神に背を向け、罪を犯したため、本来であれば滅びる他はなかった私たちに救いをもたらし、罪のゆるしと自由を与えてくださる救い主でした。 私たちの罪を負い、十字架にかかって死ぬことによって私たちを救ってくださったのです。

イエスをキリストとする生き方

@自分を捨てる
 捨てるとは自分のことを何も考えないとか、ないがしろにするとかいうことではありません。 イエスがおっしゃったのは「自分を第一にする生き方をやめる」ということです。 多くの場合、選ぶと言うことは他のものを捨てると言うことでもあります。 ノーということです。
 神を選び、神に従って生きるということは、自分を捨てるということなのです。 けれどもそれが一番得な生き方です。

A日々自分の十字架を負う
 私たちはイエスさまと同じ意味で十字架を負うと言うことはないでしょう。 けれども私たちが日々負うようにと託されている十字架があります。 それは私たちの体の弱さやハンディーのようなものかもしれませんし、自分の育つ過程の中で負ってきている性格的な弱さ・もろさかもしれません。 本当だったら負いたくない、けれども神様に負うようにと託されているものがあるはずです。 私たちは日々、それを負うのです。

Bイエスに従う
 これはイエスに従って一歩一歩進む歩みです。 イエスはついてきたいと思うならとおっしゃいます。 ついていけるのだろうか、私たちは不安に思います。 けれどもイエスが私たちの罪を負って十字架を担い、そしてついてこいと一歩先を歩んでくださるから歩んでいけるのです。

 

(9/8 礼拝説教より)