2002年7月28日


御言に生きる教会
          ヨハネ4章16〜54節

彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。   (ヨハネ4章50節)

 「聖書の虫」といわれた車田先生は「聖書に帰れ」(りばいばる誌)という論説の中で、@なるべく大きな聖書を持つ、A複数約の聖書を比べる、B関連個所詳しく読む、C中心聖句を覚える、D学んだことを心・生活に当てはめ、反省し、祈りなさいと述べ、私たちに勧めておられます。 ところでこのヨハネ四章のイエスの奇跡は私たちとどういう関わりを持ち、現代的意義があるのでしょうか。 ヨハネは奇跡のことを「しるしだった」と言いました。奇跡はイエスが救い主であることを指し示すと共に、救いとはどういうものなのかということを示すしるしでもありました。その意味で福音書の奇跡は今の私たちにも語られたメッセージなのです。 今日、私たちは、イエスのお姿を見ることができません。このような私たちが信仰を持って歩むと言うことはどういうことなのでしょうか。このイエスの奇跡は、このような私たちの問いに答えを与えています。 カペナウムに来て重病の息子を癒して下さい、と願うこの父親の願いをしりぞけ、「直っています(新改訳)」と約束を与えられたのでした。御言だけで癒されるのか。この御言葉に息子の命を託すべきか。この父親は重大な決断を迫られました。そして彼は信じて帰っていったのです。そして彼が信じて家に向かったその時刻に息子の熱が引き始めたのでした。
 このイエスの奇跡は私たちの信仰の基本的なありかたについてとても大切なことを教えています。すなわち私たちの信仰の基本は聖書の御言葉に命を託して生きることなのです。この御言葉の確かさ・権威こそヨハネが「しるし」だと述べたところのものです。
 私たちは皆、聖書は神の言葉だと信じています。けれどもより大切なのは御言葉に自分をゆだねていくことです。「わたしの言葉があなた方にとどまっているなら何でも望むものを求めるがよい」(ヨハネ十五7)。「御言葉がとどまっている」とは御言葉にコントロールされる生涯を意味しています。 これは易しいようでそうではありません。自分の都合によって好きな言葉だけを聞くのではなく、語られる御言葉を私に語られた主の言葉として受け止めて、その私に語られた御言葉に人生をかけていきたい。神はそのような生涯を豊かに祝福してくださいます。

 

(7/28 錦織 博義師 礼拝説教より)