2002年6月9日


罪人の仲間になってくださった神
          ルカ7章31〜35節

また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。   (ルカ7章34節)

1.宗教家達のフラストレーション
 宗教的指導者達はバプテスマのヨハネが来て、禁欲的な生活をしていると、お前は暗い、一緒に騒いでくれないと言って怒っている。 またイエスが来て、罪人や取税人たちと親しく交わり、食事をなさると、もっと禁欲的であるべきだと腹を立てる。 神の前に誠実に生きようとしたヨハネの生き方を退け、また神の愛を表されたイエスを拒んだのです。 それは子どもが自分の思うようにしてくれないとへそを曲げるようなものです。
 神様が自分の思うようにしてくれないと言ってへそを曲げ、フラストレーションのかたまりになってしまう。 私たちもそんな思いを抱くことがあるかもしれません。

2.神のフラストレーション
 ここにはある意味でイエスのフラストレーション、または悲しみがよく表されています。 多くの預言者が来て、神の御心を伝え、また神の子イエスが来られても、人々は何かと理由をつけて、そのメッセージを拒んだのです。 神様は私たちをごらんになって、私たちと共におられて、どんな思いをもっておられるでしょうか。
 私たちは自分のフラストレーションをぶつけながら、案外、神の思いを知ろうとしない。 神が御自身の思いを知ろうとしない人間に対してどんなにフラストレーションを感じておられるかも、分かろうとしないのです。

3.あえて罪人の仲間になった神
 イエスは「罪人だ。神から呪われている、捨てられている」と、言われ、考えられていた人々の友となり、共に食事をし、時間を過ごして、「罪人の仲間」と呼ばれて下さいました。 ですから逆の言い方をすると自分が罪人だと言うことを認めることのできる人は「罪人の仲間」になって下さったイエスが本当にうれしいのだけれど、自分が善人だと思っている人はイエスを受け入れることができないのです。
神の言葉をそのまま受け入れようではありませんか。 なんだかんだと文句をつけるのをやめて、神が私に語られることをすなおに受け止めようではありませんか。 そして本当に私を愛して、私の仲間になってくださった神に本当に感謝して、その救いを受け入れようではありませんか。

 

(6/9 礼拝説教より)