恐れることはない。 ただ信じなさい。 (マルコ5章36節)
日本人は何と死のための備えが出来ていないのでしょうか。
どこでも、誰でも必ず来るものなのに、直接向かい合うことを避けています。
やっと十数年前から「死生学」が提唱され、死と向き合う人が増えてきました。
科学万能の今の時代でも決して死は乗り越えられる問題ではありません。
まして二千年前の主の時代の人々にとって、死の問題は想像を絶する大きいものであったでしょう。
会堂司ヤイロは「娘が死にかかっています。助けて下さい。」と主にお願いしました。
彼は会堂の管理者、長老、地域の有力者、ユダヤ教のリーダーでした。
伝統にとらわれない生き方をされた主を苦々しく思っていたかもしれません。
けれども思いがけず自分の娘が病気にかかりました。
面子にかけても主の元にいけない。
病人の癒しは伝わってくる。
別の方法でと、どこへいっても治らず、万策尽きて、最終の結論として主の元に行くことになたのかもしれません。
そこまでの心の葛藤はどれほどであったでしょう。
白昼堂々頭を下げて命乞い、プライドを捨てる、権威は丸つぶれ。
職を取り上げられ、破門される、危険性もありました。
今まで築いた地位、名声、社会基盤を捨てる、悩みは計り知れないものであったでしょう。
しかし主の元に行こうと決心させたものは、父の娘への愛情でなかったでしょうか。
ヤイロは立場・見え・外聞を捨て、心の中のプライド・立場を砕かれ、白紙の状態で主の元に行きました。
主は彼の願いを退けず、一緒に行って直して下さることになります。
家に案内して向かうと、長血の女の人が止めます。
一秒でも早くきてほしいのにとイライラがさせられるヤイロ。
そんな時使いの者がきて、娘が亡くなったと知らせます。
間に合わず、死んだらどうにもならない。
主でもどうすることも出来ない。
死んだら終わり。それが常識です。
けれども、主はヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と、声をかけられます。
常識と主の言葉とどちらに信頼し、どちらを選ぶのかという問いかけ、チャレンジでした。
ヤイロは信仰にかけます。
あなたはどちらを選ぶかが、問われています。
主の御言葉に励まされ、力付けられて立ち上がらせていただきましょう。