新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 (ルカ5章38節)
1.新しいぶどう酒
私たちの世界で「新しい」という多くのものは今日新しかったとしても次の日には古くなってしまいます。
けれども聖書の中で新しいというときにそれは、全くそれまでのものと質が違うと言うことでもあるのです。
イエス様がこの地上に来られた時に、その教え、そしてイエスという存在自身が非常に異質なものとして映りました。
イエス様という存在と共にいることは当時の人々にとってある種の居心地の悪さをもたらしたはずです。
彼が来られて新しいものを示された時に、それまでのものが「古い」とされたからです。
イエス様の時代、多くの宗教家たちは一生懸命宗教的実践を積むことによって自分のきよさを維持し、神に受け入れられるものへと自分を高めようと努力しました。
けれどもイエスはそれを「古い」とされたのです。
新しいもの・・・それは喜びをもたらすものでした。
古い旧約聖書の律法の世界は神の御旨と人間のあるべき姿を示しましたが、そこから出てきたのは悲しみであり嘆きでした。
もし正直に神の御旨の中を生きようとしたら、私たちは絶望しかない。
けれどもそこにイエスは新しいものを携えて、いや、御自身が新しいものとして、私たちのところに来てくださったのです。
イエスは神の御旨から遠く離れてどうすることもできなくなっている私たちのために、自らが救いの道を開いて、立派な行いによってではなく、イエスを救い主として信じることによる救いをもたらしてくださったのです。この救いのメッセージは今も新しくあなたに届けられています。
2.新しい皮袋
イエスは新しいぶどう酒は新しい皮袋にとおっしゃって、イエスの新しい教え、新しい救いの道を生きる者は新しい生き方をするのだと教えられました。
イエスの教えは古い生き方には収まりきらないのです。祈りや断食がいけないのではない。
それがまるで自分の功徳のようにとらえられ、命が失われてしまう。
こうすべきだとか、すべきでないとか、そういう型だけにとらわれた生き方はイエスの新しい教えに合わないのです。
私たちはイエスの新しい命に満たされて、新しい生き方をしたい。
神様の新しい命に、大きな喜びに満たされているのだったら、喜びにあふれて新しいことを始めていきませんか。
新しいぶどう酒・新しい恵みをたっぷり注いでいただける新しい皮袋にしていただこうではありませんか。