2001年12月30日


主を待ち望む歩み
          ルカ2章22〜39節

この人は正しい信仰深い人であって、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。  (ルカ2章25節)

 イエスが生まれ、きよめの期間が過ぎた時、マリヤとヨセフはイエスを抱いてエルサレムの神殿に礼拝を捧げに来ます。 そのような場面に二人の高齢者がでてきます。 けれども、この二人の人たちが神殿に毎日のように連れてこられる幼子の中からマリヤとヨセフの幼子を見分けられたと言うことは大変驚くべき事です。 シメオンやアンナはどのようにイエスを見いだすことができたのでしょうか。

1.正しい信仰深い人
 シメオンは正しく、信心深い人でした。 真っ直ぐで曲がったところがない。 彼の生涯の中に信仰が息づいていました。 彼らの信心深さは彼らがずっと宮を離れずに礼拝を捧げ続けたところから来ています。 必ずしも教会という場所や建物に不思議な力があるというわけではありません。 来たくても来られない方々もいらっしゃる。 しかし許される方は、祈りが積まれ、神のためにささげられた場所に来て愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げると言うことがその信仰を支えていきます。

2.聖霊の働きを受け入れる
 働いておられる主を認め、その働きを見分けていくと言うことは何か特別な霊力によるのではありません。 時々、自分は聖霊の働きを感じるとか、感じないとか、悪霊の働きが強いとか、霊を感じやすい人がいないわけではありません。 そのようなことを全く認めないわけではありませんが、聖霊に満たされる、聖霊に近く歩むとは、別の言い方をするなら、神の御言葉によって歩んでいくということです。 聖霊は聖書の御言葉を通して、私たちに語られるのです。 自分の歩みの中で与えられる神の御言葉によって時に励まされ、時に正されていくのです。

3.慰めの時を待ち望む
 もう一つのことは神の時を待ち望むと言うことです。 シメオンは慰めの時を待ち望んでいました。 神はまさしくその慰めの時を備えておられたからです。 神の慰めと言う時に、それは大変だねえ、しっかりね、というような言葉ではない。 神自らが下ってきて私たちのかたえに立ってくださるのだ。 まさにそれがクリスマスに起きた出来事だったのです。
 神の備えられた慰めの時の完成が近づいています。 イエス様がもう一度おいでになって、全地を治め、新しい天と新しい地を創造し、私たちを迎え入れてくださるその時です。 感謝し、神を待ち望みましょう。

 

(12/30礼拝説教より)