2001年10月21日


主の恵みの時が来た
          ルカ4章14〜30節

主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、 打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。  (ルカ4章18,19節)

イエスは自分の育ったナザレの町をお訪ねになりました。 そしてその町で、イエスは、イザヤがやがて来られる救い主について預言した聖書の箇所を読まれてから、この聖句は「この日に」成就した、つまり「私によって成就したのだ」と語られたのでした。
恵みとは何でしょうか。 恵みとは何もお返しのできない私たちに神が一方的な無代価の愛を与えてくださっていると言うことなのです。
「恵みの年」と言う時、それは特別な意味を持っていました。 50年に一度のヨベルの年のことで、奴隷は解放され、売られてしまっていた土地は元の所有者の手に戻り、借金は免除されたのです。 そのヨベルの年を定められた神が本当に願っていた、自由の時・解放の時が、来たのだと言うことだったのです。

@解放の時 ・・・聖書はこのように言います。 私たちは罪の奴隷で、罪の言いなりになって生きていたのだ。 自分でどんなにがんばっても自由になれなかったその罪の問題にも神はイエスによって解決の道を開き、自由に神を愛して生きることができるようにしてくださったのです。

A弱い者たちへの良き知らせ ・・・そしてこの恵みの年は「貧しい者、囚人、盲人、打ちひしがれている者」に伝えられる。 本当だったら忘れられ、見捨てられても仕方のなかった私が、このすばらしい知らせを伝えられ、自由と解放を経験したのです。
人々はこのイエスをどのように受け止めたのでしょうか。 イエスをほめ、感嘆しました。けれども彼らは言いました。 「だけどこのイエスは大工のヨセフの子。彼自身も大工じゃないか」。 彼らはイエスを神の子・救い主として受け入れることができませんでした。 そしてイエスをがけから突き落とそうとしたのです。 罪の恐ろしい現実がここにはあります。
イエスは今日も私たちに恵みの日を宣言しておられます。 全く神の祝福・神の顧みに価しない者が自由になる、解放される、そのことが人になってこの世に来てくださり、私たちの罪を負って身代わりの死を遂げてくださったイエスによって実現した。 私たちは喜びと感謝をもって神の恵みの宣言を聞き、心いっぱい感謝しようではありませんか。

 

(10/21礼拝説教より)