2001年7月29日


御霊による聖別(使徒1:3−11)
          村上宣道師

ただ聖霊があなたがたに下る時・・・。        (使徒1章8節)

 パウロはエペソの町を初めて訪ねたときに、そこにいた信者たちに「信仰に入った時に聖霊を受けたのか」との問いを投げかけます(使徒19:2)。 パウロにとって聖霊を受けるということは決してどうでもいいことではなかったのです。 聖書は聖霊が注がれる時に力を得ると言います。 聖霊が注がれる時にその力はどのようにあらわれるのでしょうか。

1.心のきよめ(使徒15:7-9) 
 教会の歴史を大きく左右したエルサレム会議の時に、異邦人がユダヤ教に改宗することなくただキリストのあがないによって救われるのかが討議されました。 結論に大きな影響を与えたのは、異邦人にも聖霊が注がれ、心のきよめが与えられているという事実でした。 聖霊は私たちの心をきよめてくださいます。

2.宣教の力(使徒1:8、2:4、4:31) 
 キリストは33年の短い生涯を送り、復活後、父なる神のみもとに帰られます。 イエスは自分が残るよりも、助け主なる聖霊を送っていただく方がよいと考えられたのです。 確かに弟子たちは弱い頼りない存在だったかもしれませんが、聖霊は彼らに宣教の力を与えたからです。 聖霊が語らせられる言葉を語りだした、語らないではおれなくさせられたのでした。

3.聖書の開示(使徒2:14〜)
 ペテロは聖霊が注がれた時に旧約聖書の言葉を引用してキリストを証ししていきました。 今まで隠されていたみ言葉の真理が開かれていったのです。

4.鮮明なキリスト体験(使徒2:22〜)
 ペテロは三年間キリストと一緒に過ごしながらもイエスのことがよくわかりませんでした。 けれども聖霊に満たされた時にキリストの十字架と復活の意味がはっきり分かるようにされたのでした。

5.教会の誕生と形成(使徒2:41〜)
 体は私たち自身ではありません(「私たちの体」に過ぎないのです)。 けれども体のない私たちはいません。 体がないと私たちはわかりません。 教会も同じです。 聖霊が注がれた時に教会もキリストの体として造られ、育てられていったのでした。

 聖霊は今も私たちの上に注がれています。 御霊に満たされて歩んでいきましょう。

 

(7/29礼拝説教より)