2001年6月3日


強くまた雄々しく

  ヨシュア1章1−9節

強くまた雄々しくあれ。 あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない。 おののいてはならない。(9)
神はヨシュアに「強く、また雄々しく」と命じられました。 ヨシュアにも恐れることがあり、おじけづくようなことがあったのいいでしょう。 けれども、この御言葉は単に怖じけることなく、しっかり戦えということだけではなく、実は7節にあるように「御言葉の戦い」において強く、また雄々しくあれと言うことなのです。 キリスト者の戦いはまさに「神の御言葉」をめぐる戦いなのだと言って良いでしょう。

1、神の約束への信頼の戦い
彼らの戦いは「神の約束が実現するかどうか」という戦いでした(3,6)。 神の御言葉の約束にすがっていくという戦いです。 悪魔はいつも神の約束を疑わせ、神の言葉をねじ曲げてしまおうとします。 わたしたちのお言葉信仰というのは御言葉をそのまま額面通りに信じるのであり、そのお言葉を通して、そのお言葉を信じることによって、そのお言葉を語られたお方に信頼すると言うことなのです。

2、「口」から離すなという戦い
毎日、昼も夜もその御言葉を口ずさみ、思い続けるのです。 聖書を毎日読み、また聖書を暗唱しましょう。 悪魔は私たちを聖書の御言葉から引き離そうとします。 けれども御言葉は悪魔の攻撃から私たちを守るのです。

3、守り行うという戦い
ただ聞くだけ・読むだけの者になってはいけません。 その聞いた御言葉を守り行うのです。
ただし御言葉は単なる「掟・きまり・規則集」ではありません。 聖書の御言葉はそれをしっかり受け止めるときに、私の内に実現していき、私たちを生かしていく力のある生きた言葉なのです。
最後に
神はヨシュアに対して、再三再四「わたしが共にいる」と呼びかけられます。 それは決して神が背後霊のように私たちにつきまとうというような意味ではなく、御言葉が私たちの内に止まることによって、神が共におられるという臨在信仰を具体的に私たちは体験することができるのです。

 

(6/3礼拝説教より)