2001年5月13日


共にささげる礼拝のしあわせ

人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」と言ったとき、わたしは喜んだ。
        (詩篇122篇1節)

この詩篇の記者が喜んだのは人々と一緒に神さまを礼拝するその喜びでした。私たちが「主を仰ぎ共に前へ」進んでいこうとするとき、共に歩むと言うことがどこから始まるかというと「共に礼拝」ささげると言うことにおいて始まるのです。

1、われらは
 私たちはここで一緒に礼拝をささげます。 様々なところから私たちは集まってきますが、ここに集まって「私たち」「われら」として礼拝を守るのです。 皆で賛美し、皆で祈り、皆でお言葉を聞き、また皆で聖餐にあずかるのです。
 信仰は個人の業ではありません。 そして私たちがここに集まって礼拝するとき、私たちは日本中で時を同じくして礼拝をささげるすべてのクリスチャン、いや世界中のクリスチャンと共に、また時代を超えた代々の聖徒たちと共に神を礼拝するのです。

2、主の家に
 ここで主の家と言うとき、それは直接的にはエルサレムのことでした。 エルサレムには神を礼拝する神殿がありました。 そこは主の家です。
 そこは賛美の場です。 多くの賛美がささげられ、主の名がほめ称えられました。 主だけが崇められ、その名が賛美されます。
 そこは祈りの場でした。 イエスは神殿を「祈りの家」と呼ばれました。
 そこは献身の場でした。 アブラハムがイサクをささげ、またダビデが罪を悔い改めて主にささげものをささげた場でした。
 そしてそこは交わりの場でした。 酬恩祭がささげられ、人々は感謝と共に交わり共に喜びました。

3、行こう
 私たちはもっと多くの方々に神様を礼拝して欲しいと思います。 兄弟姉妹とも共に励まし合い、「行こう」と声を掛け合いましょう。
 実はこうして私たちが集まって礼拝をささげることをゆるされていることは本当に大きな恵みなのです。 来たくても来られない多くの人たちがいることを忘れてはいけないでしょう。
 ぜひ、来られない人たちのところにも主の祝福を届けてください。 私たちはみんな「礼拝仲間」なんですから。

 

(5/13礼拝説教より)