2001年4月29日


共に歩む生活
          ローマ12章

私たちは「主を仰ぎ前進する」のであるが、私たちの信仰の歩みは決して孤独なものではない。 私たちは主につながり、主の体なる教会につながって歩んでいく。 それはまさに共に生きる歩みなのである。

なぜ共に生きなければならないか?

1、兄弟姉妹だから
 同じ主にあがなわれ、救われ、同じ主を父と呼ぶ兄弟姉妹である。
 ちょうど親がどの子もかわいがるように、主はわたしたち皆を愛していてくださる。 だれも主はさげすまれない、邪険になさらない。
 誰かがさげすまれ、また問題を抱えるとき、主は自分のことのように心を痛められる。
 お互いはみんな主が命をかけ、命を犠牲にして買い取られたほど大切な人なのである。
 また、私たちが愛し合って歩んでいくことを願っておられる。
 私たちは他人ではないのである。

2、キリストの体だから
 えー兄弟だったらもう少し似ているはずなのに・・・と思うだろうか。
 私たちは皆違う。 性格も職業も全く違う。 得意なこと、好きなこと、嫌いなこと、皆違っている。 けれどもキリストにあって一つの体、各自は肢体、と聖書は言う。
 体にいろいろな部分があり、それぞれが形も働きも違うように、教会にはいろいろな人々が集められている。 みんな違う。
 けれども、体には無駄な部分がないようにみんなが必要。みんなが大切。
 私なんかと言ってはいけない。
 もちろんあなたなんかと言ってもいけない。
 目立つ奉仕をする人もいれば、存在感の薄い人もいるかもしれない。
 けれども、そういう目立たない、存在感の薄いと思われるような人が誰よりも大切な役割を担っていたりする。
 体が部分部分で対立し、争っていたらこれほど悲しい、困ったことはない。
 私たちはたまたまここにいるのではない。
 神の恵みによってここに置かれているのである。
 私たちは同じ主にあって召され、同じ主にあってこの教会に招き入れられた主の体なのである。

共に歩むとは?

1、共感する
 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」
 「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩む・・・
  一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」(1コリ12:27)
 誰かの喜びは私の喜び、誰かの悩みは私の悩み、誰かの悲しみは私の悲しみ。
 単に「いいなあ」とうらやましがったり、「かわいそうに」と同情するのとも違う。
 主も共に悩んでくださる(イザヤ63:9)
 苦しむ者のかたえに立ち続けて、自分のこととしてそれを感じていく。

2、助け合う・・・賜物を生かして
 感じるだけではなく、次に大切なことは具体的に助け合うことである。
 「互いに重荷を負い合いなさい」(ガラ6:2)。
 愛は行動を求める。愛すると言うことは具体的にあなたが立ち上がって何かをすること気持ちだけの愛は本物ではない。
 神様は私たちそれぞれに豊かな賜物を与えていてくださるが、それはお互いにそれを自分自身のためではなく、互いに仕え合い、それを兄弟姉妹のために用いることによってお互いの徳を高め、キリストの体を建てあげるためなのである。

3、尊敬し合う
 ひとりひとりの与えられている賜物には違いはあるが、賜物に優劣はない。 思い上がることなく、慎み深く、互いに尊敬しあい、自分よりも相手を優れた者としていく、共に歩むとはそう言うことだと思う。
 自分の賜物をしっかりと見いだして用いていくと言うだけでなく、相手の良い所を認めていく。弱さだってある。
 でも、みなさん一人一人みんな神様の傑作だ。
 お互いに与えられたそのすばらしさを認め、尊敬していく。
 そのような関係はまずけんかにはならない。

おわりに・・・共に歩んでくださる主
私たちが「共に」と言うときにそれは私たちお互いが「共に」というだけではない。
主が共に行ってくださるのである。
けれども覚えておきたいことは、私たちが主にあって集まり、主の前に心を一つにしているときにこそ、主の臨在が私たちの上にあるということである。

 

(4/29礼拝説教より)