2001年4月8日


自分を救わない救い主
          マタイ27:32−39

この聖日は受難週の聖日です。
イエス様が十字架で苦しんでくださったそのことを思う週です。
イエス様は引き回され、ばかにされ、頭をたたかれ、むち打たれ、
つばきをかけられ、十字架を負わされ、見せ物にされ、
裸にされ、十字架に釘づけにされました。

人々はイエスをあざけって言ったのです。
「あのざまで『イスラエルの王』だって? メシヤだって?
 自分のことさえ救えないのに何をいうのだ」

イエスは自分を救わない救い主でした。

1、イエスは本当に自分を救えなかったのか。
@イエスは降りることができた・・・イエスは神の子ですから当然降りようと思えば降りることができたはずです。 様々な大きな奇跡を次々になさったイエスのことです。 そのくらいのことはできたはずです。 また、ここに至るまでの間に逃げようと思えばいくらでもその機会はあったはずです。
「十字架から降りてこい」・・・イエスを十字架から引き離そうとさせるために悪魔は必死だったのです。
A動かなかった12軍団(一軍団は6千人)・・・イエスにとっては御使いの援軍を呼ぶことなどわけないことでした。 実際、イエスの生涯のそこここで御使いたちはイエスを支えました。 荒野の誘惑の後で、またつい数時間前にはゲッセマネの園で。 けれどもイエスはこの危急の状況の時に御使いの軍隊を呼ぶことをなさいませんでした。
イエスは自分を救えなかったのではありませんでした。 あえて自分を救おうとなさらなかったのです。

2、なぜイエスは自分を救わなかったのか
@御言葉の成就のため
 イエスは旧約聖書に約束された神の救いを実現するために来られました。
 もしイエスが自分を救ってしまったら旧約聖書にこうなると書かれている御言葉が嘘になってしまう。 イエスはまさしく御言葉の成就に命をかけられたのです。
A人々の救いのため
 キリストは罪人を救うために、多くの人のあがないとして自分の命を与えるためにこの世に来てくださった。
 イエスは罪を犯していないのだから、本当は十字架にかかる必要はない。
けれどもイエスの目には見えている。 もし、自分が十字架から降りてしまったら、あの弟子たちも、自分の家族も、民衆も、ローマの兵隊も、クレネ人も、永遠に滅んでいかなければならない。 イエスの十字架は自分のためではありませんでした。 わたしが罪赦されて救われるために十字架について死んでくださったのです。

3、自分を救わない生き方へ
 私たちはこのイエスを信じるときに、そのあがないのゆえに罪赦されて救われます。
そしてイエス様を信じた私は永遠の滅び・神の呪いから解放され、新しい命に生きます。
そして今度は、イエスと同じように自分を救わない生き方へと招かれています。
この世は「自分を救え!」と叫びます。けれども聖書は「自分を捨てよ!」と呼びかけるのです。 それは自分を粗末にしろとか、自分をいじめろとか、そういうことを勧めているのではありません。
 自分を救う生き方、それは自己中心的であり、この世にしか価値を置かない生き方です。
 けれども自分を捨てる生き方は、神をあがめ、他者を生かし、永遠を思う生き方なのです。 自分を救おうとするときに結局はそれを失うが、自分を捨てる者はそれを得る、と聖書は言います。 イエスは自らそのような生涯を送り、十字架の死によって私たちに救いの道を開いてくださっただけでなく、この人間の計算を越えた生き方の中に私たちを招いていてくださるのです。

 

(4/8礼拝説教より)