ヨハネ18章

イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(6)

 主イエスのところにイスカリオテのユダに導かれた人々がやってきました。主イエスは「誰を捜しているのか」と問われます。「ナザレのイエスを」との答えに、主イエスは「私である」とおっしゃいます。これは当たり前の何気ない会話のようにも思えますが、この主イエスの答えを聞いた人たちは、後ずさりして地に倒れたと記されています。実はこの「私である」という言葉は、ギリシア語では「エゴー・エイミ」、ヘブル語では「アノーキー(アニー)・フー」という言葉で、モーセに対して神がご自身のことを「私はいる」という方と自己紹介しているところとつながる、神の自己顕現の表現だとされています。主イエスが、私は旧約聖書においても自らを現した主だと言うかのように答えられたことに、人々は圧倒されたのだろうというのです。
 捕らえられた主イエスは大祭司の裁判、そしてローマ総督ピラトの裁判を受けられました。まさに私たちを裁くべきお方が、不法な裁きの下に自らを置いてくださったのです。それは私たちの救いのためでした。