エゼキエル46章

この地の民は、安息日と新月に、その門の入り口で、主の前に礼拝しなければならない。(3)

 聖所のある内庭に通じる東側の門は六日間は閉ざされていました。そして、安息日と月初めの新月の時には開かれて、礼拝が献げられました。そして、民の指導者も民も、入り口のところ、その門の敷居で礼拝をしました。
 イスラエルの民は主が聖なる神であることを知っています。そして聖なる神は私たちをはるかに越えたお方ですから、罪深く汚れた私たちは、本来近づくことはできません。ですから、入り口のところで礼拝するということになっていましたし、また主に近づく時には、ささげものを携えて行かなければならなかったのです。
 エゼキエルが幻の中で見た神殿も、そのような制約の中にある神殿でした。しかし、やがて主イエスがご自身の血潮を携えて入って行かれた天の聖所においては、私たちはもっと近くにまで近づくことが許されます。もちろん、主に対する畏れを失ってはならないでしょう。しかし、主を畏れつつも、喜びをもって主に近づき、主に仕えることができるのです。