Ⅰコリント6:1~11

そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。(7)

 またコリントの教会で、信徒同士のトラブルがあった場合、そのクリスチャンの間のトラブルが一般の裁判沙汰になっていました。それはとても悲しいことで、教会の中の問題が信仰をもっていない人たちにさらけ出されることになり、まさに笑いものにされることもあったのでしょう。パウロはとても恥ずかしい思いでこのことを書いています。信徒同士で争い合うということもそうですし、そのような問題を教会が解決することができず、一般の人たちに解決してもらわなければならない、ということもそうです。
 パウロは、キリスト者がお互いに裁き合っている姿を悲しい思いで見つめます。確かにその言い分は正しいかもしれません。しかし、自分の正義・自分の正当な権利を主張して、相手を批判し、相手から奪い取るのではなく、愛と信仰のゆえに、あえて不義を受け、あえてだまされているような生き方もまたあるのです。