Ⅰコリント1:18~25

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(18)

 パウロが教会の中の分裂を憂慮したのは、そのような主導権争いが、キリストの十字架を無力なものにしてしまうからでした。教会の中で権力を握ろうとする人たちは、自分がどんなに知恵があるか、どんなに力があるか、どんなに多くの不思議・奇跡を行うことができるかを自慢していました。しかし、そのような中で、キリストの十字架が軽く扱われてしまう・・・それは単に誰かと誰かが仲が悪いとか、うまくいかないということではなく、キリスト教の真髄に関わる中心的な問題だったのです。
 パウロは人々の目に、十字架がどんなに愚かに見え、また大きなつまづきをもたらすものであったとしても、自分は「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えるのだと言います。それは、まさに十字架にこそ、神の力・神の知恵が表されているからです。誰が何を自慢するよりも、キリストの十字架には神のすばらしい力、すばらしい知恵があります。だからどんなに馬鹿にされたとしてもパウロはキリストの十字架にこだわるのです。