ローマ4:1~8

しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。(5)

 パウロは三章の終わりのところで、律法を行うことによる義ではなく、恵みにより信仰によって与えられる「神の義」ということについて語り、この信仰によっていただく神の義は律法を無効にするのではなく確立するのだと語りました。そしてこの四章では、今私たちが与えられている救いが本当に旧約聖書に語られていたものであったかどうか、アブラハムの例を上げながら確認します。
 さてアブラハムが義とされたのは行いによったのでしょうか。それとも信仰によったのでしょうか。パウロは創世記十五章6節を引用してアブラハムが義とされたのは信仰によってだったと語ります。アブラハムはその行いに対する当然の報酬として義とされたのではありません。「働きはなくても、不信心な者を義とする方」を信じることによって義とされたのです。
 ダビデが罪のゆるしをいただいたのもまた、彼が十分反省して善行を積み、自分の罪の埋め合わせをしたからではありません。ただ信じ、すがることによって義とされたのです。