ローマ2:1~11

それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(4)

 さて一章で取り上げられた異邦人の罪の問題ですが、パウロの時代のユダヤ人たちは偶像礼拝は形としては行っていなかったと考えられます。性的な乱れということにおいても異邦人世界ほどに深刻ではなかったことでしょう。そのような中で、イスラエルの人々は異邦人を見下げ、裁いていました。しかしパウロは、「さばくあなたも、同じことを行っている」と指摘します。
 ユダヤ人であっても、その心の中にあるものは異邦人の中にあるものと何も変わらない。であるのに、自分の義を誇り、自分の罪を認めて悔い改めようとしない者に対しては神の怒りと憤りが臨もうとしているのです。
 ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、悪を行う者には神の怒りと裁きが臨み、善を行う者には光栄とほまれと平安が与えられます。そこには何の区別もありません。私たちは人のことではなく、まず自分を振り返り、神の前に正直に近づきたいと思います。