使徒行伝21:1~14

あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。(13)

 パウロはどこに行っても大きな迫害にあいました。時にはユダヤ人たちから迫害を受け、また時には異邦人たちから迫害を受けました。その意味でもパウロはどこに行っても、苦難があるということを知っていましたし、死ということさえ覚悟していました。彼にとっての判断基準は自分が安全かどうかではなく、そこで御言を語ることができるかどうかということでした。パウロが迫害をも恐れずに進んでいった背後には、自分自身も迫害者として生きていたということがあったかもしれません。彼は迫害する人たちの気持ちやその思いを知っていました。彼らも正義感や神に対する熱い思いで自分を迫害しているかもしれない。そして、神はそんな迫害者の中からも信じる者を起こすことがおできになる。まさにパウロ自身がその見本でした。
 ただパウロの同行者たちにはまだそれだけの覚悟はできていませんでした。パウロは自分の覚悟を伝え、また自分の思いを手渡していったのでした。